ヲタ論

ヲタとはどういうものなのか。
市井紗耶香引退の一件は、わたしのヲタについての考え方を根底から覆すものだった。
(「失意のわけ」、「決着」を参照)


わたしはヲタに意味について、そんなに深く考えずに、ファン=ヲタという感覚で使っていた。
(語源はオタクだろうから、そう考えるとキショイのだが)


MM。GP」さんの書き込みに触れ、ヲタには三つの段階があることに気付いた。


1. 与えられる段階
   受動的な段階。
   推しの女の子の情報を集め、楽曲を楽しみ、彼女の行動にについて評論する。
   彼女や事務所の思惑など関係なく、悪く言えば自分本位。
   推す事に疲れたり、新しい推しの対象が現れれば鞍替えをする。
   この段階のヲタが一番多いと思う。


2. 見極める段階
   自分が推しの女の子に対して何を望んでいるかを自問する段階。
   彼女のデビューからの経緯、現在の実力、彼女や事務所の思惑等を踏まえて、
   自分にとって彼女はどんな存在であってほしいか考える。
   自分の想い(”あややはずっとアイドル路線でいてほしい。”とか、”ミキティはソロでいて
   ほしかった。”とか。)に自分なりの理由をつけるのだ。
   自分の想いにそぐわずに、ヲタをやめる結果になっても確固たる理由が出来る。
   自分の意志のもとにヲタをやめるわけだから本質的に対象の女の子を推し続けている事に変わりは
   ない。
   市井紗耶香の一件ではこの段階で身を引いた方が多いと思われる。


3. 与える(行動する)段階
   推しの女の子の現状を容認し、彼女に対して何をしてやれるか考える段階。
   「MM。GP」さんに集った方々のように、自分が推している女の子をヲタの立場をこえて
   後押ししようと考え実行する。
   彼女の存在自体が自分にとって意味があるという、これぞマジヲタである。



わたしは、あやヲタを名乗っているが、自分自身はどの段階か考えると、所詮、「与えられる段階」を
抜けられない状態であろうと思っている。
ネット上の松浦亜弥サイトの方々の書き込みを拝見していると、自分がヲタを名乗ること自体おくがましいと
思う時がある。
そうはいってもいい加減な気持ちではないわけで。


「与える(行動する)段階」までは程遠いにしても、あややの事を考えれば、「見極める段階」に入っても
いいと思う。
いや、入らなければならないのだろう。


松浦亜弥の場合、市井紗耶香のように将来の展望を示してくれていないので、見極めるにしても
自分の妄想を出ないのだが、彼女を想う事に意義があると思える。
これからは、松浦亜弥についてそう考えていこうと思った。