比那子の思惑。

比那子は「呪い」によって何がしたかったのか。
そもそも、この映画はホラーと呼べるのだろうか。
わだかまりを解消するために原作を読んでみた。
「呪い」がモチーフだが比那子から怨念が感じられない。
比那子は探求者だったのだろう。
いじめに対するささやかな反抗を発端に「呪い」に興味を覚えた彼女は「呪い」の可能性を突き詰めていく。
理論的な観点で「呪い」を分析し自分なりの体系を構築しようと試みる。
そして、比那子の「呪い」は完成した。
ただ、彼女が生み出したものは「呪い」の範疇を超えていると思える。
魔道書と呼ばれる文献がある。
魔道書といえば魔術や呪術などの知識、奥義が書かれた書物を指すのだが、魔道書の中にはそれ自体に生命が宿ると云われている代物が存在する。
比那子が生み出したものは、まさにそれだったのだろう。
比那子はそれなりに由香のことを評価していたのだと思う。
比那子が由香に対してだけ饒舌になったのは彼女が「呪い」を認識し意見してきたからだ。
「呪い」は比那子にとって研究成果だった。
比那子は由香からの糾弾を自身の功績に対する賞賛のように聞いていたのかもしれない。
だから、比那子は由香に賭けることにした。
「呪い」を記したメールを由香にあえて送り「呪い」の解除方法を研究してみたらと持ちかけることで彼女に最後の仕上げを託したのだ。
そして、由香は比那子の思惑通り行動した。
彼女の助力によって黒羽比那子という名の魔道書が胎動を始めたのだ。
余談。
「呪い」が生み出される過程を記した黒羽比那子の章よりも、「呪い」が蔓延した後の章「浦野祐子の手紙」の方がきつい。
読んでいて気分が悪くなった。(汗

映画「ゴメンナサイ」所感。

「呪い」というのは制作側にとって都合の良い題材だと思う。
虚空から人間が現れようが、一瞬にして首が飛ぼうが何でもアリとなる。
常識ではありえない事象であっても、それが「呪い」という何だかわからない力であれば容認せざるを得ないからだ。
だから、怪異のおぞましさ(吃驚するとか、ゾッとするとか)に着目した映画が作られる。
それが一般的であり、でなければ売れない。
そういった観点からすれば、本編はかなりマニアックな作品だと思える。
何をして「呪い」とし、相手にどうすれば「呪い」を効果的に作用させられるか。
「呪い」は得体が知れない怨念の一人歩きなのでは決してなく叡智の結集である。
そういった観点で作られていたからだ。
そして、この映画の怖さは本編とは別の部分にある。
机に映っている詩織、由香、比那子の影が、桃子、愛理、雅となっている画像が公式サイトに掲載されているが、その画像がすべてを物語っていた気がする。
実際に観ないと実感できないだろうが、この映画は虚像(詩織、由香、比那子)と実像(桃子、愛理、雅)を曖昧にするような作り方がしてあったのだ。
観終わった後の落ち着かない気持ちが比那子の「呪い」に掛かったようでやたら怖くなった。
余談。
自分はお化け映えする女優さんが大好きです。
菅野美穂さん、栗山千明さん、佐伯日菜子さん、彼女たちが醸す妖しい雰囲気に惹かれるのでしょうね。
という事で、ニタリと笑うブラック雅ちゃん、かなり素敵でした。

懊悩

たまに、亜弥さんについて書き込みする。
思いついたように書くのだが、自分は彼女の過去しか見ていないと思う。
亜弥さんの楽曲は、彼女がアイドル全盛の時に感じていた想い・辛さをメディアに吐露していた頃、つまり、脱アイドルを目指し始めた辺りからぐっと大人びたものに変化した。
喜ばしい事だと思った。
そう思ったのだが、自分はその曲調をあまり好きになれなかった。
自分は身勝手だと思った。
脱アイドルを待ちわびていたはずなのにアーティストとして次のステップに進もうとしている彼女に同調できなかったからだ。
どれも一般ウケする曲調ではない気がした、マニアックに感じられるのは彼女の才能を余すことなく盛り込もうとする作り手の意図があるのかもしれない。
尤も、こんな風に感じるのは自分だけでこの曲調が一般的に好評であるのならそれでいいが。
だったら、どんな曲調ならば自分は満足できるのだろう…。
わからない。
わからないから先が見えない。
だから、自分は彼女の過去ばかりを追ってしまうのだろう。
亜弥さんは、美空ひばりさんのような存在であってほしい。
自分の中にその想いだけがある。

未だ夢をみている。

松浦亜弥は、美空ひばりさんと同質のもの(カリスマ性)を内在させている。
彼女が、女優をしても、司会をしても、一見、ピンと来ないように映ってしまうのは似合っていないからではなく感じる側が違和感をもってしまうからだろう。
彼女は歌手なのだ。
彼女を知るものすべての心がそれを認識している。
アイドルとして誕生し、その人気が全盛を迎え、今に至る過程において、そう感じるように彼女の放つオーラが刷り込んできたのだから。
彼女を知らぬものが居たとする、そのものは歌声を体感した瞬間に気づくだろう。
本物なのだから。
だから、歌うべきなのだ。

ガキさん卒業。

以前、加入と卒業を繰り返し中身を変化させるモーニング娘。は LOOKチョコレート のようだと書き込みされていた方がみられましたが全くその通りだと思う。(その喩えからすれば、ドリームモーニング娘。は復刻版といったところか。w)
ガキさんが卒業してしまうと自分として認識できる(テレビに顔が映った時に何期加入でどんな名前の女の子かが判る)メンバーはシゲさんとれいにゃさんだけになってしまうから、モーニング娘。というパッケージのチョコレートに今やどんな風味の粒が封入されているのか殆ど判らないと言っていい。
何故そうなったのか。
乱発される商品(アイドル)に目を奪われ馴染みのパッケージに殆ど手を付けなくなってしまったから。それもあるが、一番の理由は意識していなくても視界に入ってくるようなメディア(テレビ、CDショップのモニター画面等)からモーニング娘。の露出が極端に減ったためだと思っている。
現在のモーニング娘。から感じられないものがある。
かつて、モーニング娘。は体育会系ユニットだった。
怖い(言い換えれば威厳のある)先輩が常に後輩を牽引し、後輩はその背中に自分の未来を投影しながら成長していった。それがモーニング娘。の伝統であり個性だった。
それが失くなってしまった気がする。
理由として考えられるのは、後輩を先導していこうという気質の女の子が居なくなってしまったから。つまり、そういった気質の女の子は当然リーダー候補となり、リーダーに抜擢され責務をまっとうして卒業していったのだが(まっとうできないまま卒業していったリーダーもいくらか居たけどね)次のリーダーがそういった気質の女の子とは限らなかったからで後輩からすれば優しい先輩ばかりになってしまった所為だと思っている。
先輩の威厳が薄れていくことでグループの個性が保てなくなってしまったのだろう。
新曲「ピョコピョコ ウルトラ」は証明していると思う。ひよこの着ぐるみは後輩の可愛らしさウリにしている。
往年のモーニング娘。がウリとしていたカッコ良い女の子、大人っぽい女の子を表現した楽曲、大人になりきれず失恋の切なさをぶちまける女の子を表現した楽曲はもうモーニング娘。から生まれてこない気がする。
馴染み深いパッケージでありながら初々しい雰囲気を醸すアイドルグループ、それが現在のモーニング娘。なのだ。

初心。

亜弥さんが初めて「100回のKISS」を歌った時の映像を観る。
黒いジャケットとジーンズ。
笑ってない、視線が遠い。そんな彼女がとてもロックに感じられた。
そうだった。
彼女の真顔に自分は惚れたのだ。
全ては此処から始まったのだった。

10TH ANNIVERSARY BEST 所感。

10周年記念と銘打たれた割に特別感が薄い。
竹内まりやさんから提供された楽曲を収録している部分が今回のウリなわけだがコンセプトが「松浦亜弥ベスト1」の時と同じ(ファンから人気の高い曲で構成されている)ため真新しさが感じられないのだろう。
いっそのこと ℃-ute のように「全シングル集めちゃいました」+新曲としたほうが特別感を醸せたのではないのだろうか。
とは言うものの、亜弥さんにベタ惚れだった頃の楽曲は聴いていて耳障りが良いし思わず口ずさんでしまうほどに心地いい。
熱量の低下が著しいとはいえ、やはりそういった辺り亜弥ヲタなのだなあと感じてしまう。
一案として、アルバムの後半に見られるようなドラマで歌った曲や CM で歌った曲(例えば「MOVE OVER」)等、世に出なかった楽曲ばかり収録されたアルバムはどうだろうか、ファンにとって珠玉の名盤となること必至なのだが。