ヲタ論


昨日のかっしーさんと友坊主さんの書き込みに刺激されて自分も考察してみました。


推しの対象とヲタの関係を親子の愛に例えてみます。
推しの対象を親、ヲタを幼い子供にします。


幼い子供の感性では、親は傍にいるのが当たり前です。
幼い子供は自分の要求が全て親に受け入れられる事を前提で行動します。
幼い子供にとって、親は空気のような存在、若しくは自分の一部、飛躍させれば神のような存在といえます。


だから、親が自分の見える場所からいなくなった時に不安なって泣き出します。
いるのが当たり前という前提が覆されてしまうからです。
欲しい玩具が買ってもらえなかった時は駄々を捏ねます。
自分の思い通りにならず葛藤するからです。


幼い子供は自分が親の事を何もかも理解していると思い込んでいます。
自分の一部という感覚ならば当然です。


でも、実際は親の事を何一つ理解出来ていない。


どういう性格で、
何を考えていて、
何に感動して、
何に悲しんで、
どんな悩みを抱えていて、
自分(幼い子供)の事をどう思ってくれているか。


どれ一つ解っていないのです。


親が悲しそうな顔をした時、辛そうな表情を見せてくれた時、子供は初めて親の本当をほんの少し理解します。
自分が今何をしなければならないのかを初めて考え始めます。
親の傍に駈け寄り大きな背中に手を当てて、”だいじょうぶ、ボクがついているから。”って、思いつく精一杯の言葉で慰め、励ますのです。


ヲタの感性は、
①推しの対象に対して幼い子供が親に抱いている気持ちと同種の感情が芽生えたもの。
②推しの対象に対して異性(恋人)に抱いている気持ちと同種の感情が芽生えたもの。
に大きく分けられると思います。


推しの対象が信じられる云々という部分が観点となっているひとは相手を異性(恋人)のように見ているのでしょう。
推しの対象を信じられる云々は言うまでもなしというひとは相手を親のように見ているのだと思います。


推しの対象を自分の一部と感じる事が出来ているのなら、不平不満を漏らしているばかりじゃなく、感動を与えてもらうばかりじゃなく、相手に対して何が出来るか自分で考えるべきだと思います。
推しの対象をメンタルな部分で支えてあげられるように。


まとめ。


こういった内容って精神論になるので、哲学とか、宗教とかって世界になると思うんです。
自分はこんな考察をしてみましたが、それが正解とは言えないし、正解なんか無いかもしれない。


自分の感性って信じちゃいけないと思います。
勝手に作り上げた虚像が推しの対象の本当の姿だと思い込んでしまう。


推しの対象と一緒に楽しんで、盛り上げて、自己反省してみる。
それの繰り返しがお互いを成長させていく。


今のところ自分はその方向で考えています。