道程。

音楽という観点で、亜弥さんに出逢う前の自分と、出逢った後の自分を見つめてみる。
アイドル好きは亜弥さんに出逢う前からだった。
ファンクラブに入るほど傾倒していたのは十代の頃だったから亜弥さんに出逢ってアイドル熱が再燃するまでにかなりブランクがあったといえる。
その間、音楽を聴かなかったわけではなく、心の琴線にふれたものなら無節操に取り込んでいた時期なので、自分の音楽観はこの時期に出来上がったといっていいのではないのかな。
無節操といえど共通していたのはノリよりも歌詞を重視していたこと。
たまにノリでレコード(CDなんて未だなかった)を購入することもあったけどすぐに飽きてしまって、そうなると購入したことに対しての罪悪感みたいな後味の悪さだけが残って、そんな事を重ねるうちにノリでレコードを買うことをしなくなっていた。
十代の頃、アイドルに傾倒する基準は殆ど容姿だった。
技術の差はあれど誰が歌ってもアイドル曲はアイドル曲で個性的な歌手は殆どいなかったし(個性的にしようと本人が頑張っても周囲がそれを認めなかったが正解)可愛さというかキラキラ感だけを追っていた気がする。
亜弥さんの歌う楽曲には不思議な魅力があった。
往年のアイドルが歌った楽曲の背景には凡そ恋愛についての憧れみたいなものがあったのだが彼女の楽曲は少し違っていた。
恋愛についての憧れや、夢や、失恋の悲しさや、そういった想いをいきなり出さず、女の子の日常や、自我をベースに恋愛を表現しようとしている。
この辺り、つんく♂という作り手の裁量なのだろうが、こうすることで歌は物語へと様変わりするのだと思う。
聴き手が楽曲を物語として捉えることによって感じ方は全く変わってしまう。
この楽曲の内面的な部分、亜弥さんが伝えたい“本当”は何なのかを探ってみたくなる。
そうやって彼女とともに此処まで来た。
多分、この衝動は自分だけではないだろう、ヲタのなかで亜弥さんが大人に進化して尚、今までと変わりなく彼女に接しているひとの感覚は自分と似通っているのではないのかと思っている。
亜弥さんに出逢ってから、曲の背景とか、ジャンルとか、歌い手の状態(コンディション)とか、様々なことに想い巡らせるようになった。
ひとりのアイドルとの出逢いが自分の音楽性を高めているのだ。
彼女との出逢いは運命だなんて気安く使いたくはないけれどそれを信じたくなってくる。
そういった意味で亜弥さんにすごく感謝している。
これを素で遣っていると思うと驚異だが、ファンと一緒になって成長を続けるアイドル、それが松浦亜弥なのだろう。