7期オーディション所感


何週間か遅れのハロモニ。を観る、7期最終選考の模様が映されたものだ。
今回は感じたことをもう少し突っ込んで書いてみたいと思う。


合宿の風景も観慣れてしまった。
ひとりで練習するものがいて、仲間と一緒に練習するものがいた。
ただ、必死さは回を重ねるごとに見えなくなっていく。
娘。になるために懸命になっているという頑張りが伝わるハズが、自分をよく見せようと振舞っているように感じられてしまう。


彼女たちは必死だった、多分。
ただ、必死さは時代とともに変化しているのではないのだろうか。
主催者側の望む必死に今の女の子たちの必死が噛み合わなかっただけなのだ。


意識が噛み合わないのは、彼女たちが育ってきた環境に起因すると思える。
子供に何か行為をさせようとする時、親なり先生は指示をするものの、何故それが必要なのかという理屈を説明することを無意識に省略してしまう。
子供にしてみれば叱責されることを嫌い、親なり先生が喜んでくれるからという理由で自分を誤魔化して行動する、それは単に作業をこなしているだけに過ぎない。
親なり先生はしつけをしていると自己満足しているが伝えなければならない本質は子供に何も伝わっていない。


それは礼儀についても当てはまる。
つんく♂氏が通りかかれば立ち上がって頭を下げる。
それすらも出来ていないのは、学校で先生が教室に入ってきた時に起立して挨拶する意味が子供たちに伝わっていないからに違いない。


必死さを誰かに伝えるためには本質(理由)を本人が認識していなければならない。
それがあやふやのままでも許される気質が必死さの意味を全く変えてしまったのだと思う。


今回のオーディションは厳しかったと思う。
ひとりの女の子がここまで来れただけで云々と漏らしていたが、あながちそれは間違っていない。
主催者側の観点が今まで通りあれば最終選考に残った全員が合格していただろうと思う。
今回主催者側が望んだのは、自分のパートを完璧にこなせる才能ではなく短期間で集団となりうる才能だった。
歴代の合格者が娘。に馴染むために費やした1年を半年なり3ヶ月でやってしまう度量だった。
つまり、即戦力になりうるかということだ。


”みんなは、モーニング娘。になりたくて来たんじゃないの?”
夏先生によりパート分けがされみんな必死になって練習していた。
あの時、それぞれがやらなければならなかったのは自分のパートを完璧にこなすことではなく、心を打ち解けさせ自分たちなりの娘。を完成させることだったのだと思っている。


みんながまとまるためには必然的に先導役が必要となる、エースとはその才能を持ったものを指す。
その片鱗をのぞかせたのが、辻本さんと、町田さんだった。
ただ残念なことに彼女たちも主催者側の意図に気づけなかった。
だから他のメンバーをまとめきれなかった。


”エースが欲しい。”
その前振りは率直な願いであり話題をとるためのものではなかった。
モーニング娘。の存続が危うくなってきている。
つまり、真希さんのような絶対的なインパクトを放てる存在が不可欠となってしまっているのだろう。


はたして、逸材は現れるのだろうか。
そして、娘。人気の再燃という奇跡はもう一度起こるのだろうか…。